「日本考古学発祥の地」~水戸光圀の残した遺産 侍塚古墳~

2023年9月1日

大田原市湯津上地区には侍塚古墳という名の古墳が今でも残されています。この侍塚古墳は上侍塚古墳と下侍塚古墳の2つの古墳に付けられた名前です。

さて、この侍塚古墳は「日本最初」と「日本一」という二つの言葉が冠されることもある、とても重要な古墳です。

まず、日本最初というのは時代劇でも有名な「水戸のご老公」こと徳川光圀の指示により日本で最初の学術的な調査が行われた古墳であることから、「日本考古学発祥の地」と呼ばれています。

また、古墳時代研究の第一人者であった森浩一氏が、その著書の中で下侍塚古墳は「日本で一番美しい古墳」として紹介しています。優美な古墳の形は今もかわらず健在です。

この侍塚古墳は学術的にも重要な古墳であることから国の史跡にも指定されています。

栃木県では、江戸時代に発掘調査が行われたこの侍塚古墳について、現代の視点・技術を用いて再調査を行うことにより、古墳の実態や徳川光圀による調査の様子を明らかにすることが可能と考え、令和3(2021)年度から侍塚古墳の調査「いにしえのとちぎ発見どき土器わく湧くプロジェクト」を開始しました。

それでは、徳川光圀がどのような調査を行ったのか、そして現代の調査はどのようなものなのかをご紹介しましょう。

1.侍塚古墳(上侍塚古墳・下侍塚古墳)について

侍塚古墳は、上侍塚古墳と下侍塚古墳という2基の古墳の総称です。那珂川の西側段丘上に南北に約800mの距離を置いて並んでいて(大田原市湯津上)、南が上侍塚古墳、北が下侍塚古墳です。ともに古墳時代前期の前方後方墳で葺石を持ち、規模は上侍塚が那須地域最大、下侍塚は2番目の大きさです。両古墳は昭和26(1951)年に国史跡に指定されています。

下侍塚古墳は昭和50(1975)年に周辺の農地整備に伴って周溝部分が調査され、築造当時の土器が出土しました。一方、上侍塚古墳は光圀の発掘以来手つかずのままで、地域最大の古墳にもかかわらず、正確な築造時期や規模などはわかっていません。

なお、墳丘は光圀の調査時に上記の通り新たに土を盛って修復していると考えられるため、築造当時の葺石や段築などは埋もれてしまっていて見ることができません。

上侍塚古墳

総長:154m

墳長:114m

後方部幅:58m  後方部高さ:11.5m

下侍塚古墳

総長:108m

墳長:84m

後方部幅:47m  後方部高さ:9.3m

前方部幅:34m  前方部高さ:5.6m

ともに古墳時代前期の前方後方墳で葺石を持ち、規模は上侍塚が那須地域最大、下侍塚は2番目の大きさです。江戸時代の元禄5(1692)年に徳川光圀が発掘をした古墳としても知られています。

光圀の指示による発掘では墳頂部を掘り下げて調査しました。この時の出土遺物は木の箱に入れて埋め戻し、墳丘には新たに土を盛り、松を植えて土が崩れないようにしました。これは、現代の文化財保護の思想と比較しても遜色のないもので、「日本最初の発掘調査」・「日本考古学発祥の地」とされています。

上侍塚の北には、上侍塚・下侍塚より古い可能性が指摘される全長48.5mの前方後方墳、上侍塚北古墳があり、下侍塚の北には一辺17mの方墳とされる侍塚古墳群八号墳をはじめ8基の古墳からなる侍塚古墳群があります。

2.徳川光圀が行った調査

那珂川町の馬頭地区は、江戸時代は水戸藩領でした。領内の巡視を行った徳川光圀は、小口村(現那珂川町小口)の里正(庄屋)、大金重貞から献上された『那須記』に書かれた「那須国造碑」に注目し、碑に記された人物の氏名を明らかにするため碑周辺と侍塚古墳の発掘を行ったのです。

発掘にあたったのは光圀の命を受けた儒学者の佐々介三郎宗淳と大金重貞で、その時の状況は大金重貞が書いた『湯津神村車塚御修理』から知ることができます。

それによると、五尺(1.5m)ほど掘り下げると「へな土」があり、その付近から捩文鏡(ねじもんきょう)1面、石釧(いしくしろ)1点、管玉(くだたま)2点、鉄鏃(てつぞく)18点、鉄斧(てっぷ)1点、甲冑片5点などが出土、これらの品々は絵師が図をとったあとで箱に納め、その箱を八尺(2.4m)下に埋めたとあります。出土品を入れた箱は松の板で作った長さ一尺(30㎝)、幅七寸(21㎝)、高さ七寸(21㎝)のもので、釘でとめて松ヤニで目張りをし、蓋には光圀によって発掘の経緯を明らかにした書き付けがあったとされています。

これを実際の古墳に当てはめると、発掘地点は後方部の墳頂で、「へな土」が粘土だとすると埋葬施設は木棺を粘土で覆う粘土槨(かく)だったと思われます。地表面下1.5mの位置に古墳の被葬者が埋められていて、そこに副葬品としての鏡などがあったのでしょう。

発掘の後、墳丘には新たに土を盛り、周囲には松を植えて土が崩れないようにしました。古墳の中に埋めた箱の書き付けには「墓誌が見つかって被葬者の氏名がわかれば、記念碑を建てて後の世まで伝えようと思った」という意味の言葉があります。光圀は古墳の被葬者に対して敬意を払うとともに、この古墳が長く後世まであり続けられるようにと考えていたのでしょう。

当初の調査目的だった国造碑の主に関わるものを発見することはできませんでしたが、この一連の調査は現在の文化財保護につながる考え方でもあることから、「日本で最初の発掘調査」「日本考古学発祥の地」と言われるゆえんになっています。

歴史の教科書では、明治時代はじめに行われた、E.S.モースによる東京都の大森貝塚の発掘調査が最初の調査として知られていますが、じつはそれ以前にも立派な調査が行われていたのです。

なお、「那須国造碑」は、古代に造られた実物が今も残る貴重な石碑で、「日本三古碑」の一つとして知られています。笠石神社のご神体で、国宝に指定されています。

3.侍塚古墳の調査「いにしえのとちぎ発見どき土器わく湧くプロジェクト」

栃木県は、県内にある重要な遺跡の調査研究とその活用を目指した「いにしえのとちぎ発見どき土器わく湧くプロジェクト」事業として、侍塚古墳(上侍塚古墳・下侍塚古墳)の発掘調査を行っています。

先ほどの徳川光圀の調査後は、侍塚古墳は地元の方々によって大切に守られてきたため、古墳自体の新たな調査をする機会がありませんでした。今回の調査によって光圀の行った調査の実態も明らかにできるかもしれません。

侍塚古墳で実施する調査

・古墳周辺の詳細な測量図の作成(発掘調査前の現況の記録)

・地中レーダーによる古墳の非破壊調査

・周溝や墳丘斜面の発掘調査(古墳の規模、遺存状況、後世の改変状況等の確認、記録)

・これまでに残された古墳の調査記録等の整理

⇒古墳の規模・築造方法・時期等が分かります。

⇒徳川光圀が実施した調査方法が確認できます。

令和3年度は、侍塚古墳と周辺の航空レーザ測量を実施したほか、上侍塚古墳の墳丘の周囲においてトレンチ(試掘坑)を設定しての発掘調査を、下侍塚古墳墳頂部と上侍塚古墳墳丘については非破壊での物理探査(地中レーダー探査・電磁探査)を進めました。令和4年度は、上侍塚古墳の周溝の調査を継続、墳丘のトレンチ調査を開始しています。
これまでの調査によって得られた成果をご紹介いたします。

上侍塚古墳の測量調査・発掘調査

【詳細】上侍塚古墳・下侍塚古墳と周辺の航空レーザ測量図について

上侍塚古墳はとてもきれいに整った形をしていることが分かります。
また測量結果から、検討すべき課題が下記のとおり判明しました。

1.墳丘のほとんどは一定の傾斜面 → 築造当時から段築はないのか
                  (※段築:古墳の墳丘を階段状に積み重ねて造ること)
2.後方部墳頂にくぼみがある   → 江戸時代の発掘の痕跡か
3.前方部前面がややくぼむ    → 周溝の痕跡か
4.古墳の範囲はどこまでなのか → 周溝はどこまで作られていたのか?

これらを解明するために、まずは古墳周辺の発掘調査を行い、周溝部分の状況を確認することとしました。
測量図をみると、上侍塚古墳・下侍塚古墳ともにきれいな前方後方墳の形をしていることが伝わってきます。上侍塚古墳は、現在までの間に古墳の周辺に巡る溝(周溝)が埋まってしまい、どれぐらいの規模の溝があったか分からなくなってしまっています。まずは埋まってしまった溝の規模を確認するために、古墳の周辺に試堀用の細長い調査区(トレンチ)を設定し、周辺の溝の状況を調査しました。

上侍塚古墳の発掘調査の状況

1.周溝

周溝の存在を確認するために、試掘トレンチによる発掘調査を行いました。
古墳東側では4地点のトレンチ調査により、周溝と呼べるような溝は存在しないことが判明しました。また、墳丘で確認した古墳築造時の地面の高さを考えると、溝としては掘らずに、全体的に基盤となる固い砂礫層まで掘り下げていたようです。
古墳の北側と西側では周溝の様子がはっきりしました。西側では周溝がとくに深く掘り込まれています。周溝の幅は約20m、深さは最大2mあり、後方部西側が最も深いです。
古墳南側では周溝の痕跡が見つかっています。昭和になって土取のために掘り下げたとの話があり、古墳時代の層はごく一部でしか見つかっていません。
これらの調査により西側に弧状に巡る周溝の形が復元できました。
また、周溝を埋めた土は大きく上下に分かれ、上部を埋めた土の中から、江戸時代の陶磁器片が出土しています。上下の層の境は平坦で、鋤などで掘削された痕跡がよく残っていました。
これから判明したのは、上侍塚古墳の周溝覆土は、江戸時代に一度掘り直しているということです。さらに、文献による記録から、徳川光圀の調査の際に、崩れかかった古墳の盛土を修理したようなので、江戸時代の掘削は、墳丘修築のための土砂を確保する目的で行われた可能性があります。

調査の様子

後方部東側の転落葺石調査
発掘調査の状況
発掘調査の状況
発掘調査の状況
後方部裾の葺き石の様子
葺石の間から出土した赤く塗られた土器
上侍塚古墳東側のくびれ部の様子
くびれ部から出土した小型土器

2.墳丘

墳丘の斜面と墳丘の裾部を中心に、墳丘の作り方などを探る発掘調査を実施しました。
後方部斜面の調査から、後方部の墳丘は三段で作られていたことが分かりました。
墳丘の断面から昔の地表面の高さも判明しました。
施された葺石は上半部が崩れ落ちているようで、その間から墳丘の上に並べられたと考えられる赤く塗られた壺型土器の破片がたくさん出土しました。
くびれ部からは同じ壺型土器以外に、古墳での祭りに使う小型土器などが出土しました。これらは出土の様子から、意図的に割られたようです。

3.その他

また、古墳南側で古墳時代前期の竪穴住居を確認しました。竪穴住居は柱などが燃えた炭や焼土などがよく残っており、焼失住居と考えられます。古墳の南側隣接地にあるので、古墳と何らかの関係があったかもしれません。

6.物理探査(地中レーダー探査・電磁探査) 

侍塚古墳の墳頂部には、出土した鉄製品や鏡などを収めた木箱(松材)が埋められたとされています。本当に墳頂部にあるのか、今どのような状態なのかは不明のままです。また、整った形の墳丘ですが、光圀による発掘の際に修復した結果だと考えられています。つまり今の姿は江戸時代に作られた可能性があり、築造当時の古墳は今の土の下に隠れて見られなくなっているかもしれません。こうした疑問や課題を非破壊で解決するため、地中レーダー探査と電磁探査という物理探査を実施しました。

地中レーダー探査は、地中に電磁波を発信し、地中に存在する物からの反射を捉えて地中の状況を調査するものです。上侍塚古墳では墳丘全体に、下侍塚古墳では墳頂部に実施しました。これにより墳丘の段築や葺石、江戸時代に墳丘を修復した地点、光圀が埋納した箱などが確認できるのではないかと考えられます。

電磁探査は、電磁場によって金属など電気を通しやすい物体を検出するもので、上侍塚古墳・下侍塚古墳の墳頂部で実施しました。電気を通しやすい銅や鉄製品などに反応し、光圀が埋納した箱の発見を期待したものです。

地中レーダー探査では、上侍塚古墳の葺石や平坦面が確認できました。前方部は2段、後方部は3段に築造されている可能性が高いことが判明しました。また、墳頂部でも1.5~4mの深さの掘り込みがあることが分かりました。電磁探査では古墳に埋め戻された鏡などの副葬品について特に反応はありませんでした。

日本一美しい古墳とも言われる墳丘の美しい姿は、今でも侍塚古墳を訪れると目の当たりにすることができます。古墳時代に築造された当時の姿もすばらしかったと思われますが、それに光圀が行った偉業が加わったからこそ現在の優美な姿になっているのです。ぜひその姿を現地で体感してください。


侍塚古墳周辺の古墳・史跡および観光施設

  1. 上侍塚古墳(大田原市湯津上)
  2. 上侍塚北古墳(大田原市湯津上)
  3. 下侍塚古墳(大田原市湯津上670)
  4. 侍塚2号墳(大田原市湯津上)
  5. 侍塚3号墳(大田原市湯津上)
  6. 侍塚8号墳(大田原市湯津上)
  7. 駒形大塚古墳(那珂川町小川2965)
  8. 那須八幡塚古墳(那珂川町吉田)
  9. 吉田温泉神社古墳(那珂川町吉田)
  10. 唐の御所横穴(那珂川町馬頭)
  11. 笠石神社【那須国造碑】(大田原市湯津上430)
  12. 那須スポーツパーク(大田原市湯津上2745)
  13. 大田原市なす風土記の丘湯津上資料館(大田原市湯津上192)
  14. 那珂川町なす風土記の丘資料館(那珂川町小川3789)
  15. 湯けむりふれあいの丘(大田原市湯津上5-776)
  16. 那須神社(大田原市南金丸1628)
  17. 道の駅 那須与一の郷(大田原市南金丸1584-6)
  18. 栃木県なかがわ水遊園(大田原市佐良土2686)
  19. 馬頭温泉郷(那珂川町小口)
  20. 那珂川町馬頭広重美術館(那珂川町馬頭116-9)
  21. 道の駅ばとう(那珂川町北向田181-2)

侍塚古墳(上侍塚古墳・下侍塚古墳)の発掘調査についての問合せ先

栃木県生活文化スポーツ部文化振興課
宇都宮市塙田 1-1-20  ℡ 028-623-3424

公益財団法人とちぎ未来づくり財団 埋蔵文化財センター
下野市紫 474 ℡ 0285-44-8441
http://www.maibun.or.jp/

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